桐生

桐生とスカジャン5~進駐軍~

現・桐生織物記念館

1934(昭和9)年築・国登録有形文化財

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1945年9月13日、終戦から約1ヶ月たった桐生織物会館旧館

(現・桐生織物記念館)に、進駐軍が群がっていた。

市内の織物業者は、戦争で販売できなかった製品や

徐々に再開して織り上げてきた製品を集めて進駐軍の土産品として売り出した。

主な製品はハンカチ、ネクタイ、マフラー、テーブルクロスなどだったが、

人形や羽子板も販売され、たいへん好評を博したという。

 

この頃の進駐軍は、陶磁器や絹織物などを探すため、

日本各地の産地を訪ね歩いていた。

理由は、主に2つある。

ひとつは、スーベニア(お土産)商品を探すことであり、

兵士たちが駐留地の特徴ある土産品を持つ、あるいは贈ることで、

自身への誇りや家族への愛情を確認しようとした。

もうひとつは、軍需用として生産されたすべての物資を把握するためだった。

国民生活の安定のためには、物資の生産、供給を円滑にしなければいけない。

戦争目的にのみ集中してきた戦時経済は一変して、国民の生活維持と

これからの復興に向かって動くことに重点を置くことになった。

 

桐生は絹・人絹織物の産地として有名であっただけに、その在庫品も多く、

いろいろな角度から目をつけられていた。

8月26日に設立された「終戦連絡中央事務局」が国内物資の整理を担当したが、

当時、一般の人は金融機関から金を借りられなかったため、

「糸へん」の経営者たちが力を尽くした。

滞貨物資を商社に流すために組織を作る人々が現れたり、

進駐軍の許可を得るため、日本織物配給統制会社との連携を図ったり、

正規ルートで商品を流通させることに尽力した。

それでも密かに隠し持っていたり、ヤミ市に流れる物資ははるかに多かった。

同じ「糸へん」の経営者でも、対馬経由で密輸を図って逮捕された人物もいる。

1949年からスカジャンを生産している明仙縫製社長の明仙泰作氏によれば、

幼少期(1940年代後半~1950年代前半)に出入りしていた織物工場の屋根裏には、

絹の落下傘が山積みにされていて、その上を飛び回って遊んでいたらしい。

 

はじめて桐生の地を踏んだ進駐軍たちは、大いに目を輝かせていた。

特に絹製品に対する憧れは強く、羽二重に富士山や芸者ガール、

横浜・横須賀・日光などの図案を刺繍したハンカチーフ、マフラーなどが

飛ぶように売れ、それらを売る店は「スーベニヤ」として特別に認められた。

当時のアメリカで刺繍といえば、ハンドルミシンによるチェーンやシニールが主流である。

和装品などに施された繊細な横振り刺繍に魅了されてもおかしくはない。

戦災を逃れた桐生の繊維産業はすぐに生産することが可能であり、

表も裏も光も闇も関係なく、生きるために競って作りまくった。

スカジャンの誕生はそれから間もなくのことであった。

 

焼き払われた横浜。左上に大桟橋、右にホテルニューグランド

「日本帝国の最期」(新人物往来社 )」より

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進駐軍がどのように日本を占領していったのか、おおまかにその経過を見てみよう。

8月30日午前9時半頃、横須賀で完全武装の海兵隊員約17,000名が上陸

同日午後2時過ぎ、連合国最高司令官にして米極東軍司令官(Far East Command)

マッカーサー元帥が、厚木飛行場の夏草の上に降り立ち、横浜に進駐した。

9月2日午前11時半頃から、横浜港の大桟橋等に米第8軍の騎兵第1師団4~5000名が

上陸を開始し、同日午後から翌3日にかけて、第8軍の主力部隊が相次いで上陸した。

9月17日、総司令部(General Headquarters=GHQ)は東京赤坂の米大使館へ移り、

10月2日から日比谷第一相互ビル(現・第一生命日比谷本社DNタワー21)で執務開始。

米第8軍司令部は横浜を本拠地とし、12月末で94,094人を数えた。

当時の進駐軍将兵のおよそ4分の1が横浜に集中していたことになる。

駐日空軍(第5空軍)が名古屋に最初に進駐したのは9月26日。

後続の米軍25師団の主力部隊約27,000人が名古屋港に入港したのは、10月26日。

当初、東日本が第8軍、西日本が第6軍の管轄であったが、

第6軍司令部は12月31日に解散し、日本全域の占領は以後第8軍によることとなる。

その司令部が置かれた横浜は日本全土(沖縄を除く)にわたる占領の本拠地となった。

 

進駐軍による日本全国への兵力展開は極めて迅速に行われ、

9月末にほぼ内地進駐を終え、10月には北海道、松山の進駐を完了。

桐生には10月5日、旧熊谷飛行学校に進駐していた米陸軍第97師団の

将兵33人が、旧日本絹撚株式会社事務所棟(現絹撚記念館)を接収、駐屯する。

他に接収された建物に、金善ビル(現存している)、旧金木屋旅館などがあった。

 

このように進駐が迅速に成し遂げられたのは、

米陸海軍の空軍情報部隊による情報活動に負うところが大きい。

戦争中に上空から写真を撮影し、日本全土の道路地図を作製するなど、

徹底的に日本の研究をしていた。

日本各地への進駐兵力は、展開がほぼ終わった10月末には総員30万人、

11月末に43万人、12月中旬に45万人を超えてピークに達している。

こうしてアメリカは、圧倒的な力を日本人にも、そしてソ連にもみせつけることに成功した。

そして、占領の本拠地・横浜に、桐生からのスーベニア商品が続々と届くようになるのに、

それほど時間はかからなかった。

 

 

当時の日常の生活を見てみよう。

以下は、戦中戦後の桐生織物業界を代表する木村一蔵氏の著書、

「桐生の歩みの中で」(桐生タイムス社)から引用する。

 

「洗濯するにも風呂に入るにも石鹸も洗剤もなく、

塩、砂糖、食用油などもちろん貴重品でなかなか普通の手段では手に入らない。

衣料品はつぎあてをする有様で、常に蚤、虱、蚊、南京虫に悩まされていた。

多くの戦災孤児や罹災した人々の生活など、これからの国の方針がわからず、

暗闇を手探りで歩く感じだった。

帰還兵が帰り始めると同時に、戦没者の公報が入ってくる。

そうした悲喜こもごもの中に生きなければならない。

どうして生きていくか官民ともに個人の生活と同時に、

国の再建のあり方にも真剣に取り組まなければならなかった。」

 

木村氏は当時35歳。終戦間近の7月に召集令状がきて出征している。

熊本市の熊本西部第65部隊で終戦を迎え、9月3日に桐生に帰還した。

当時の状況を少しでも感じられるよう、さらに引用を続ける。

 

「軍隊が進駐してきた場合、私達はどんな扱いを受けなければならないだろうかと、

国土を侵された事のない日本国民は唯不安のみであった。しかしその反面、

天皇の命によって戦争が終結し国内に於いての戦いが行われないことになり

もう空襲はないという安心感とが、人々の心の中に交錯していた。

この頃の社会状況はその時代に直面しない人々にはとても理解できないと思う。」

 

「(終戦を迎えたが)決起にはやる若い将校、下士官達はあくまで戦う決意で

敵軍の進入に備えるべく気勢をあげており、戦う事のみに集中して培われてきた

気持ちのはけばのない、やるせなさを、どうしたらいいのかと訴えているようすであった。

しかし妻子を持つ我々年配のものは早く帰郷したい気持ちでいっぱいであった。」

 

「熊本駅に一張羅の軍服をまとい、南京虫に食われて栄養不足のため化膿した足を

軍靴も履けぬまま、足袋裸足の姿で貨車に乗せられた。そこにはもう将校も下士官もなく

皆同じ仲間として同車していた。帰途原子爆弾によって焦土と化した広島駅を

通過した時は、原爆の身体に及ぼす影響の気味悪さと罹災された方々に対する

気の毒さで唯、早くここを通り抜けたいという気持ちであった。

大阪に着いてみると此処も焼け野原であったが、バラック建てのお店で

温かい食事をとらせて貰い親切に扱っていただき

やっと人間らしさを取り戻したようであった。」

 

「やせ細った身体に目ばかり鋭く食べ物もなく、唯きょろきょろと物欲しげな

人々の姿が目立ち、食事を求めて歩く道すがら誰かが吸い残した火のついている

煙草の吸いがらを私の戦友がすばやく拾って、さもうまそうに吸っているその姿を

みるとき、他人事でなく自分もできればそうしたいと思った。

生きて行くためには恥も外聞もなくなる人間の本能を、哀れに思えてならなかった。」

 

使命感にあふれる語り口であり、生々しい貴重な証言である。

大きな古時計の振り子のように、社会情勢も感情も振り幅がとてつもなく大きい時代だ。

だからこそ、人もモノもエネルギッシュでパワフルだった。

こういう状況でスカジャンが生まれたことを想像するとき、

いま手元にある「里帰り」したビンテージスカジャンの歴史に重みが増す。

 

 

戦争は経済活動のひとつである。

景気も左右されるし、人生も左右される。

その時代の法制や情勢によって、人々は食うために行動し、職業を選択してきた。

新たな顧客を探し、何が売れるかを体験を通じて学び、絶え間ない商品開発を行い、

ここぞというときに投資をして、売りまくるのだ。

進駐している米軍兵士という新たな顧客をみつけた桐生の人々が、

刺繍業や縫製業を起業したり、鞍替えしたのも納得できる。

自転車屋から刺繍屋になったり、鉄工所から縫製屋になったり、

はたまた帰還兵を雇って、SPAのハシリともいえる業態を確立したり。

戦前から織物を中心とした糸へんに関わる産業の活気が

街のあちこちにあふれて、商工業の発展を促進していた。

華やかな街の空気が織物の経糸のようにピンと張り続けていた。

 

時々、考えざるをえない。

この時代に自分が生きていたら、どうやって生き抜いただろうか?

そんなことを考えるのは無駄だと思うかもしれない。

でも、決して無駄なことではない。

現代は生まれながらにして、世界的な激流の只中に放り込まれる。

当時の歴史を知り、人々の行動に想いを馳せることは、

いまを生き抜く知恵を身につけることでもあるのだ。

ビンテージのスカジャンが、そのことを教えてくれている。

 

 

桐生とスカジャン4~縫製業の夜明け~

「我が織機たちが出征するとなれば、これほど目出度いことはない。

赤飯を炊いたから召し上がっていただきたい。」

 

そう言って、企業整備の任務を受け訪ねてきた同業の組合員たちを迎え入れた。

一行は工場に行って驚いた。まるで、息子を戦地に送りだすかのように、

織機一台一台に、日の丸の小旗がはためいていたのだ。

その織物工場の社長が取った行動を、組合員たちは後年まで忘れなかったという。

 

戦時中の織機供出の一場面である。

1943年(昭和18年)6月1日、政府は戦力増強企業整備要綱を閣議決定し、

7月29日、織物製造業の企業整備決定にいたる。

200坪以上の織物工場は強制的に軍需工場に転用、力織機などの機械は

兵器資材として供出、従業員は軍需産業に徴用されるというものであった。

これにより、約600工場、織機約13,000台を供出、

7割近くの業者が転廃業を余儀なくされた。

戦後、進駐軍が接収した日本絹撚株式会社も、中島飛行機吾妻工場として

パラシュート部品の軍需工場に転用された。

この年、戦前の桐生のあちこちに機音が響きわたった最後の年となった。

 

桐生は織都から軍需工業都市へと変貌していく。

しかし、機屋がゼロになったわけではない。

絹のパラシュートなどの軍需品生産、民需用の指定生産、

生糸があったことから一部自由生産(販売は規制されていた)を行ったが、

戦況の悪化とともに、次第に指定生産のみとなった。

残存5,601台の織機は、零細業者たちによって健気に働いていた。

絹や人絹の傘地、国防色の国民服の裏地、防空用暗幕などを生産。

桐生織物を戦争の断絶から防ぎ、

のちにスカジャンという世界に通用する洋服誕生の素地を形成した。

 

転廃業した業者のなかに、縫製業を選んだ人々がいた。

桐生市立図書館が陸軍被服廠として徴用されたのは、

1945年(昭和20年)5月1日で、学徒動員により多くの女学生たちが従事した。

民間工場ではテーブルクロスのヘム縫いくらいがせいぜい存在する程度であり、

ミシン台数30台以上の工場はわずか7軒。桐生においては新しい業界ということになる。

 

1920年~30年代にはシンガー社のミシンが日本市場を席巻していて、

テーラー、中小規模工場、家庭へと普及しはじめていた。

足踏みミシンを嫁入り道具としたのも、この頃からである。

とはいえ、工業用途として余っている本縫いミシンはない。

当時は、企業単位はミシン50台の小組合という制約があり、早急に集めなければならない。

それでも、遊休の本縫いミシンは1台もなかったのである。

 

しかし、この土地はミシン刺繍の産地である。

シンガーのSW17(107Wと推測される)という刺繍ミシンならば、遊休のものが2,000台あったのだ。

1本針のジグザグ刺繍ミシンを本縫いミシンに改造することで、

桐生の縫製の礎となるのであった。

 

それが、朝鮮戦争景気に沸く1951年(昭和26年)には、

桐生市内において26軒のジャンパー屋があったという証言がある。

(話し言葉では、「ジャンバー」と濁った発音である)

「ジャンパー屋」としたのは、当時は景気が良い業種にこぞって

転業する人々が多く、刺繍業者がスカジャンの縫製まで手がけたり、

買継商がスカジャンを扱ったり、カツギ屋が縫製までやるようになったりと、

多くのライバルが参入し、混沌とひしめき合っていた。

 

さて、「糸へん」と「金へん」は、当時の桐生では車の両輪だった。

機屋の旦那衆と鉄工所のオヤジである。機械の修理や改造などはお手の物だった。

彼らはよく遊び、よく働き、政治力を存分に活かした。

そのなかのひとり、明仙彦作氏は1942年(昭和17年)、戦火が激しくなったことで、

桐生鉄工機械工業組合理事長として組合を解散、

残った元組合員たちと桐生鉄工株式会社を設立したが、終戦後、縫製業に転業している。

当初は横振り刺繍を生業とし、やがてスカジャンの縫製を手がけることになる。

今も残る日本で唯一、当時からスカジャンを作っている縫製工場の起源である。

 

戦後、すぐにスカジャンを縫っていた中には、戦争未亡人も多くいた。

分業制で多品種少量生産を伝統としてきた桐生の人々は、

市内の実に7割近くが繊維関連の仕事に従事していた。

夫を亡くし、幼子を抱えた彼女たちは、内職として家庭でミシンを扱い始めた。

昨年、桐生市内でみつかった11着のデッドストックは、シンガーの足踏みミシンで

まさにこの時代に縫製されたものである。

 

スカジャンはしかし、マイナーな商品だった。

それは、進駐軍のために作るものだったからである。

戦後価値観が大きく転換する中で、日本人は戦争は間違いだったと刷り込まれる。

「一億総懺悔」の言葉どおり、後ろめたい気分の中、それでも生活のために

作りまくった。作れば作るほど売れたのである。

また、新興産業の縫製・刺繍業界は、

織物業界に比べればアウトサイダーであることも影響した。

しかし、だからこそ自由な発想で様々なスーベニア商品を開発できたともいえる。

 

一方で、当時メジャーだった商品にレーヨンマフラーがある。

のちに桐生の戦後輸出品第1号となるこの商品は、アフリカ向けに大いに売れた。

ここで、桐生の先人の胆力が発揮されているエピソードを紹介しよう。

マフラーの受注は多いが、原糸の手当てが出来ない。

そこで、GHQ本部まで赴き、政府保管の輸出用人絹糸の凍結分の特別配給を受けている。

また、民間貿易再開時には、GHQと貿易庁と直接掛け合ってもいる。

そんな政治力を持っている先人が多数いたのが当時の桐生であった。

 

戦後、GHQからの発注で活況を呈した縫製業界だったが、

1949年(昭和24年)からの統制撤廃が進むにつれ、

翌年には1~2軒の縫製業者が残るのみとなってしまう。

物資の供給が豊かになっていった絹、人絹、綿の順に

順次統制が撤廃されていくことで、温室から野に放たれたのである。

ただし、前述したように分業制が発達した桐生では、

内職仕事として家庭でミシンを踏む女性は依然多かった。

 

 

群馬縫製の東京支店

「群縫しんぶん綴」より

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そんななか、1948年(昭和23年)6月、日本橋大伝馬町に東京出張所を開設した

縫製会社があった。群馬縫製である。1944年(昭和19年)に設立されたその会社、

桐生人には、グンポー(のちの社名)といった方が通りが良いかもしれない。

戦時中の企業整備により、織物工場から縫製工場に転換し、被服廠の監督のもと、

女性労働力を活かして軍服やメリヤス下着などを縫製していた。

終戦後、生産管理をしていた軍人も桐生に残り、内地向けの縫製業の先駆けとなった。

その後アメリカ向けブラウスを輸出したところ、堅牢度でクレームがついてしまい、

価格を下げ“ワンダラー・ブラウス”として輸出したら大当たりしたという逸話は、

たくましさとしたたかさを持つエピソードとして記しておきたい。

 

こうして少しずつ新しい産業である縫製会社がポツポツと芽生え始め、

進駐軍のスーベニア商品「スカジャン」として花開くことになる。

 

桐生とスカジャン3~横振りミシン~

シンガー社の横振りミシン(桐生市観光交流課)

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あなたは、「横振り(ヨコブリ)」という名前を聞いたことがあるだろうか。

縫製で使用する本縫いミシンと違い、押さえや送り歯がなく、

文字通り、針が左右に動く刺繍ミシンで縫われた刺繍のことである。

多くの人々は横振りミシンや手振りミシンと言うが、これは通称で、

正式には千鳥ミシンという。当時はジグザグミシンとも言われていた。

(以下、分かりやすくするため、通称の「横振りミシン」を使用する。)

シンプルな構造だが、刺繍する際には生地を柄に合わせて動かさねばならない。

さらにレバーを右足の膝で調節することで、振り幅を自在に操る。

ビンテージスカジャンといえば、横振りミシンで縫われた刺繍が最大の特徴である。

 

現在主流のコンピューターミシンは、平坦できっちりと綺麗に仕上がり、

複数縫っても同じ刺繍ができるが、横振りミシンでは一枚ずつ職人が縫う。

ゆえに、同じ柄でも多少のバラつきが出るし、同じ柄を違う職人が縫えば

さらに個性的なものが仕上がることもある。

桐生では1970年代頃から、コンピューター制御の多頭式ジャガードミシンが

主流となっていく。横振りからジャガードへ。この変化もドラスティックであったが、

戦前の手刺繍から横振りミシンへの転換も生産性向上に大いに寄与した。

 

時計の針を大正時代に戻そう。

なぜか。この時代にミシンの輸入が本格的に始まったからだ。

1910年代に日本国内の衣料品製造業の構成はおおかた形成されている。

軍服や足袋、靴、鞄などをはじめ、

シャツ、メリヤス下着、外套(コート)などの生産が盛んになっていく。

それらの用途に合わせて、実に多様な種類のミシンが開発されたのだ。

主要な港のある横浜や神戸などに出店していたアメリカのシンガー社のミシンは、

独自の販売方法によって、日本国内のテーラーや中小工場、

さらには家庭にまで浸透していくことになる。

 

桐生でもミシン問屋を通じて、多くの横振りミシンが導入されている。

機械・電気修理の職人も多かったから、ミシンの改造も頻繁に行われた。

当時の刺繍工場では、交互に向かい合う状態で10台ほどの横振りミシンを設置し、

すべてを同時に動かすために、1台のモーターを動力とし、

ミシンの上部から各ミシンのプーリーに革ベルトをかけて稼動させた。

1台のモーターを動かすと、10台の横振りミシンがすべて動くということになる。

元々和装関連の刺繍が多かった桐生地区では、大きい柄で振り幅を必要としたため、

シンガーの103型本縫いミシンを改造したミシンが主流になっていく。

当時を知るお年寄りは「ひゃくさん」と呼んでいたようだ。

後年、隣の栃木県足利市に設立されたミシン会社のSTAGERという横振りミシンは、

桐生人の設計であったという逸話も残っている。

 

刺繍といえば、伝統的に手刺繍が用いられてきたが、

横振りミシンが普及するにつれ、生産性が飛躍的にあがることになる。

多品種少量生産で、分業制にも磨きがかかり、

半襟、袱紗、鏡台掛けから仏具、和装品などへの刺繍が流行となる。

もともと織物や撚糸、染色などが盛んな地域だった桐生は、

ミシンの普及により繊維製品のすべての工程をこなすことができる地域として

全国的に知られた存在となっていく。

こうして大正時代末期に桐生でミシン刺繍がはじまった。

 

その当時、国産ミシン事情はどうだったのだろうか。

東京のパイン裁縫機械製作所(現・蛇の目ミシン工業株式会社)や

名古屋の安井ミシン兄弟商会(現・ブラザー工業株式会社)などが台頭しはじめていたが、

主に修理などが中心の事業で、パリ条約における特許障壁の影響もあり、

おおよそ1930年代から活発になっていくことになる。

ちょうどモボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)が登場したこの頃、

日本社会の道徳観は急速に変化していた。

この頃の日本は欧米諸国とは良好な関係を築いており、桐生は海外でも名を馳せた。

絹・人絹織物の産地としてアメリカをはじめ、アジア、アフリカにまで進出していた。

高等小学校を卒業した多くの女子が、横振り職人になるために桐生を目指した。

時代は、日本を列強国の一国へ押し上げようとしていた。

 

太平洋戦争の激しさが増すなか、桐生のミシン刺繍技術は統制上の保護のもとにあった。

戦後は、空襲がほぼなかったため、ミシンなどの小規模の設備は残っていた。

夫が戦死したある未亡人は、子供たちを育てるために

嫁入り道具であったシンガーの足踏みミシンで、縫製の内職をはじめた。

近所には、評判の横振り職人たちがいた。15~6歳の少女である。

横浜や横須賀あたりに出来上がった製品を持ち込めば、飛ぶように売れたから、

刺繍屋で内職を抱えることも多く、大忙しとなっていった。

やがて、1949年には業者が結束して「桐生スーベニア(土産品)協会」が設立され、

1959年時点では、輸出・内需向け含め、全国の横振り刺繍生産の85%を桐生で担っていた。

ある町内では、隣組のうち3分の2が個人で刺繍業を営んでいたという。

 

ミシンが普及すると、織物産地イコール衣服産業の産地とは限らなくなり、

日本全国どこでも縫製や刺繍が可能となっていた。

織機などを設備するには大きな資本が必要だが、

ミシンなら個人が少額でもはじめられたからである。

こうして米軍基地周辺で横振りミシンを扱うネーム、パッチ刺繍業者が増えていった。

ただし、技術者が最初から各地にいたかというとそれは疑問だ。

その疑問への答えは、戦後の桐生市長の戦略にあった。

当時の前原一治市長は、横振り刺繍の産地であり、多くの職人がいた桐生から、

全国各地に技術者を派遣していたのだ。

横振り刺繍の技術者を各地に派遣することで、ものづくり拠点としての桐生を宣伝

することになる。物資が不足している時代とはいえ、

レーヨンサテンの生地やリブジャージを生産しているし、

縫製業者も充実しはじめた時期だから、全国への供給拠点にもなりうると考えた。

横須賀をはじめ、佐世保、沖縄など全国に、桐生から横振り職人たちが移住した。

わずかではあるが、いまでも刺繍を生業としている人々が各地で健在なのである。

 

日本が戦争をはじめた理由は、国内で資源がまかなえないという点が大きかった。

だからというべきか、日本人は資源を加工することが得意である。

あるいは、工夫してこれまで以上のものを生み出すことができる。

絶え間ない努力で付加価値を最大化することに長けているのである。

職人が扱う横振りミシンで縫われた刺繍製品は、70年以上たったいまでも、

世界中の人々(ごく一部だけれども)を魅了している事実がある。

 

 

桐生とスカジャン2~レーヨンサテン~

昭和初期の桐生の織物工場の様子

「桐生・伊勢崎・みどりの100年(郷土出版社)」より

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人絹(じんけん)。

終戦当時、レーヨンは人絹と呼ばれていた。いまでも、当時を知る人々から

話を伺っていると、「じんけん、じんけん」と耳にすることがある。

字面の通り、最高級素材・絹のように滑らかで、艶感のある美しい生地である。

 

朱子織(しゅすおり)。

生地の織り方のことで、当時はサテンバックなどとも呼ばれる裏朱子織も存在した。

いまでも、年配者からは「しゅす、しゅす」と聞くことも珍しくない。

密度が高く、光沢が強いが、引っかかりに弱いなどの特徴がある。

 

素材と織り方をあわせたこの「レーヨンサテン」と呼ばれる生地。

これが、今日でも目にするビンテージスカジャンの生地である。

特に1940年代後半から1960年代初頭のこの時期、

戦前から世界中を席巻していた桐生の人絹織物が使用されていた。

 

昔から絹(シルク)は最高級品で、主に和装のお召しなどに重用されていた。

アセテートはこの時期はまだ実用に至っていない。

桐生での織物の生産実績は1962年以降である。

市場には圧倒的に人絹織物があった時代なのである。絹より安く糸を仕入れることができ、

努力しだいでたくさん織物を作ることができた。世界がこぞって欲するのも無理はない。

そして、この素材を早くから市場に投入したのが桐生人であった。

 

昭和初期の帯地展示会の様子

「桐生・伊勢崎・みどりの100年」(郷土出版社)」より

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1918年(大正7年)、国産人造絹糸を緯糸に使用した文化帯、これが日本初の人絹織物の

本格的な商品化の先駆けであった。桐生人が生み出した商品である。

繊維産業、織物業界というのは、当時の花形産業であり、国の強力な保護政策も後押しした。

不況の時代にあっても、織物の町・桐生には、東北や北陸などから多くの女工が

足を踏み入れたのにはこういう理由があった。

 

さらに桐生人のベンチャー気質を列挙するならば、明治時代にすでに

絹織物の羽二重を全国の輸出商品に先駆けて独自にアメリカに輸出している。

横浜にあった外国商社と取引するために当地に進出したり、アメリカへ洋行したのも、

他産地にくらべて桐生人が一番早かった。

幕末から明治にかけての機屋、買継商は、江戸との交流が盛んであったため、

文化レベルも高かった。

これらは、桐生人が当時から中央機関との強力なパイプがあったこと、

アメリカは桐生が絹・人絹織物の日本一の産地であったことを知っていたことを意味する。

 

1929年(昭和4年)の世界恐慌により、

輝かしい栄華を誇った日本の絹織物の輸出は半減した。

それに取って代わるように人絹織物が席巻していったのである。

世界各地に駐在員を置き、東南アジア調査団を組織し、徹底した市場調査を行った。

インド地方にフランス産の織物が大量に輸出されているのを知り、

研究を重ね、新商品を開発しまくった。

 

欧米、東南アジア、豪州、南アフリカなど、商機ありとみるや、風俗や習慣を調査して、

よりよい商品を次から次へ売り込んでいった。

この成功の裏には、組合が重要な役割を担った。

中小零細機業が時代の荒波に立ち向かうのは大変なことで、

経済が不安定なこの頃には吹けば飛んでしまうようなことも多かった。

そこで組合である。戦前の工業組合法は強力で、

カルテルなどの実施権限を持つ中小零細機業は、伝家の宝刀を持つこととなった。

 

満関支といわれる中国各地にも盛んに輸出されていた。

資源小国・日本の租借地であった関東州はじめ、中国は重要な戦略的拠点であり、

自給自足体制を敷くべく、列強国に挑んでいった。

世界はこれを脅威とみた。高率関税や輸入割当制度の実施などにより、

世界中が日本の商品の輸出阻止のためにあらゆる手を打ちはじめることとなる。

 

2.26事件が発生した1936~37年(昭和11年~12年)、

桐生の織物業界は史上最高の時期を迎えることとなる。

輸出に制限がかけられる中、アメリカの旺盛な需要を背景に活発な商いが行われ、

やがてアメリカを抜いて世界一の生産を記録するのは皮肉である。

 

 

昭和22年~39年の桐生産地原糸使用量表(単位:万kg)を表す手書きのグラフ

近代桐生輸出織物の歩みより

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戦後混乱期の話は今後の内容に譲るとして、最後に人絹織物の衰退時期を見てみよう。

1957~58年(昭和32~33年)のナベ底不況により、

人絹糸は5割の操業短縮を強いられた。供給過多となったわけである。

政府は、絹・人絹織物織機などの過剰織機買い上げを断行。

多くの機屋が転廃業に追い込まれていった。

 

続く1958~1961年(昭和33~36年)の岩戸景気で経済はふたたび好転し始める。

しかし、構造変化の波が押し寄せていた。花形産業であった織物業界は、その座を

鉄鋼、造船、自動車、機械金属、電気などに奪われていく。

4月には「第2の黒船」といわれる自由化体制を迎えることとなり、

従来の温室育ちから厳しい国際競争の風にさらされることとなっていく。

 

大正時代後期から約40年間桐生を支え続けた人絹織物は、

高度経済成長期と反比例するように、

アセテートやナイロンなどの合成繊維系の織物に押されていく。

もし、あなたの手元にアセテート製のビンテージスカジャンがあれば、

それは1960年代以降のものと判別することができる。

 

 

桐生とスカジャン1~スカジャン誕生前夜~

進駐軍の兵士たち。本町6丁目付近で

(「思い出のアルバム桐生」より)

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1945年(昭和20年)8月15日。太平洋戦争敗戦。

 

奇しくも、この敗戦によって「スカジャン(スーベニアジャケット)」が誕生することとなる。

いまでもコレクターの間で高値で取引される、いわゆるビンテージスカジャンは、

奈良時代(今から1300年前)に起源を有する織物の産地・群馬県桐生市で生産されていた。

玉音放送の翌月、9月13日には、早くも進駐軍のアメリカ兵(米兵)が桐生を訪れている。

このときの目的のひとつは、帰国土産の織物や繊維製品を購入することだった。

 

戦時中の桐生は、大きな空襲がなかったため、工場設備などが残されていた。

大規模の織物工場は軍需工場に転用されており、鉄製力織機は供出されていたが、

残存していた5,601台の織機で、絹や絹人絹交織の落下傘生地や国防服の裏地などを

指定生産しており、終戦時はかなりの量の在庫がひそかに工場内の倉庫に置かれていた。

 

進駐軍が駐屯した旧日本絹撚株式会社事務所棟(現絹撚記念館)

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10月5日。旧熊谷飛行学校に進駐していた米陸軍第97師団は、将兵33人を

桐生に送り込み、旧日本絹撚株式会社事務所棟(現絹撚記念館)に駐屯する。

ちなみに、10月10日に旧前橋陸軍予備仕官学校(榛東村)へ2千人、

太田の中島飛行機工場へ千人を進駐させ、のちに軍政本部とする。

翌11日には、高崎の旧東部三八部隊兵舎に200人の米兵が進駐している。

群馬県のなかで、より早く桐生に進駐した理由は、徐々につまびらかにしていく。

 

桐生において、戦前の1935年頃に、当時の先端素材・人絹(レーヨン)織物は、

生産額1位であり、日本の輸出品の第3位となっている。

活況を呈していた桐生では、カフェーや料理屋などが軒を連ねていたが、

戦中から戦後にかけ、飲食業も転廃業を余儀なくされていた。

そんななか、米軍将校との懇親会が行われたのは、戦前から続くとある料亭だった。

 

多くの市民は手持ちの衣料や装身具などを持って、農村で食料と物々交換していた。

桐生駅は連日、リュックサックや風呂敷を背負った買出し部隊でにぎわい、

末広町通りや本町通りには露天が並び、ヤミ市が形成されていった。

当初恐る恐る米兵の様子をうかがっていた市民は、

フレンドリーで裕福な彼らの姿を見るにつけ、

やがて片言の英語を使い、日本人形や雛人形、扇子や織物などを

煙草やチョコレートなどと交換し合うなど、したたかに打ち解けていった。

 

錦町ロータリーで交通整理する進駐軍兵士たち

(「思い出のアルバム桐生」より)

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米軍将校と桐生の有力買継商との懇親会は有意義なものだった。

それは、桐生の横振り刺繍技術と米兵の戦時における服飾カスタム文化との

本格的な最初の出会いであった。

9月13日の視察によって、桐生のモノづくりの技術に価値を見出した将校は、

駐留記念として手持ちのジャケットにカスタムすることを思いつく。

買継商たちは、縫製や刺繍の技術を持つ人々に依頼した。

そのなかには、多くの戦争未亡人もいた。そういった人々に支えられていたのだ。

 

「西の西陣、東の桐生」。

桐生の職人たちは、進取の気性を持っている。

都としての伝統を誇る京都に比べ、桐生は開放的で排他的なところがなく、

雑な一面、愛される市民性を持つという。

組合中心に輸出にいち早く取り組んだり、先端素材の研究に取り組むなど、

時代とともに変化を伴いながら進化してきた。

モノを作ることができたことが、戦後の桐生市民にとって、大いなる助けとなったのだ。

 

戦争は政治の決断である。敗戦は国民を追い詰め、傷つけた。

でも、だからこそ、スカジャンが生まれた。

73年たった今でも残る当時のスカジャン。一度は兵士とともにアメリカに渡り、

1980年代に日本人バイヤーやコレクターによって再び日本の地を踏むスカジャン。

 

その誕生は、東京から100キロ離れた小さな地方都市・桐生での

米軍将校と買継商との出会いからはじまった。

 

 

桐生とスカジャン~プロローグ~

昭和21~25年に桐生で製作されたスカジャン

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私は、出会ってしまった。

2017年(平成29年)冬。

桐生で製作された証のデッドストックスカジャンに。

 

ビンテージスカジャンが、終戦直後、桐生の地で製作されていたことは知っていた。

アパレル業界やスカジャン好きの間では知れ渡った話ではある。

しかし、現代の桐生の人間はほとんどこのことを知らない。

織物産地として名声を誇ったから、絹・人絹織物の歴史は資料として残っているが、

縫製や刺繍、リブやジッパーについての記述はほとんどない。

果たして、本当に製作されていたのか、そんな疑問が常に頭に浮かんでいた。

 

それが、この出会いによって確信に変わった。

知っている刺繍屋の名前が出てきたのだ。

今はないその刺繍屋。しかし、確かにそこにあった息吹を感じた瞬間だった。

 

これ以降、織物組合関連の資料を読み漁り、

当時の織物、縫製、刺繍、リブ、ジッパーを扱う事業所を調べ上げている。

調べれば調べるほど、桐生が隆盛を誇った織物業界の歴史や戦争の歴史を知らないと

スカジャン誕生の秘密に迫れないと考えるようになる。

新しいものにも臆することなく果敢に飛びつく進取の気性、

中央政府機関やGHQとのパイプ、

貿易を通じて絹織物産地として世界中に名声を誇ったこと。

 

昭和21年桐生祇園祭の様子。進駐軍のジープが写る

「桐生・伊勢崎・みどりの100年(郷土出版社)」より

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歴史は現代と地続きである。

スカジャンを知らない人たちにも知ってほしい歴史がある。

だから、地道に「桐生とスカジャン」を綴っていく。

 

現代の桐生人が、この地でスカジャンが生まれたことを知らないのは当然だった。

当時の桐生人は、つい先日まで鬼畜米英のスローガンのもと戦ってきた相手のために、

あらゆる技術の粋を集めた豪華絢爛なスーベニアジャケットを作りまくった。

生きるために、後世に名前を残そうななどと考えもせず、

デザイナーのいない日本生まれの洋服「スカジャン」を短い期間に大量に作りまくった。

職人自身が作り上げた歴史は、GHQの占領政策終焉とともに、しだいに忘れ去られていく。

職人自身もまた、高度経済成長期の波に乗って、いつしかスカジャンのことを忘れていった。

 

記録として残されることはなかったが、人々の記憶に強烈に残ることになったのは、

資料などが存在しないことで伝説化していったことも大きい。

人々の想像で思い思いのストーリーを作り上げることができることが

スカジャンの魅力のひとつなのだろう。

私は、ひとりのビンテージスカジャンファンとして、確かなエビデンスを調べ上げ、

記録として後世に残していきたい。