桐生とスカジャン4~縫製業の夜明け~

「我が織機たちが出征するとなれば、これほど目出度いことはない。

赤飯を炊いたから召し上がっていただきたい。」

 

そう言って、企業整備の任務を受け訪ねてきた同業の組合員たちを迎え入れた。

一行は工場に行って驚いた。まるで、息子を戦地に送りだすかのように、

織機一台一台に、日の丸の小旗がはためいていたのだ。

その織物工場の社長が取った行動を、組合員たちは後年まで忘れなかったという。

 

戦時中の織機供出の一場面である。

1943年(昭和18年)6月1日、政府は戦力増強企業整備要綱を閣議決定し、

7月29日、織物製造業の企業整備決定にいたる。

200坪以上の織物工場は強制的に軍需工場に転用、力織機などの機械は

兵器資材として供出、従業員は軍需産業に徴用されるというものであった。

これにより、約600工場、織機約13,000台を供出、

7割近くの業者が転廃業を余儀なくされた。

戦後、進駐軍が接収した日本絹撚株式会社も、中島飛行機吾妻工場として

パラシュート部品の軍需工場に転用された。

この年、戦前の桐生の町中に機音が響きわたった最後の年となった。

 

桐生は織都から軍需工業都市へと変貌していく。

しかし、機屋がゼロになったわけではない。

絹のパラシュートなどの軍需品生産、民需用の指定生産、

生糸があったことから一部自由生産(販売は規制されていた)を行ったが、

戦況の悪化とともに、次第に指定生産のみとなった。

残存5,601台の織機は、零細業者たちによって健気に働いていた。

絹や人絹の傘地、国防色の国民服の裏地、防空用暗幕などを生産。

桐生織物を戦争の断絶から防ぎ、

のちにスカジャンという世界に通用する洋服誕生の素地を形成した。

 

転廃業した業者のなかに、縫製業を選んだ人々がいた。

桐生市立図書館が陸軍被服廠として徴用されたのは、

1945年(昭和20年)5月1日で、学徒動員により多くの女学生たちが従事した。

民間工場ではテーブルクロスのヘム縫いくらいがせいぜい存在する程度であり、

ミシン台数30台以上の工場はわずか7軒。桐生においては新しい業界ということになる。

 

1920年~30年代にはシンガー社のミシンが日本市場を席巻していて、

テーラー、中小規模工場、家庭へと普及しはじめていた。

足踏みミシンを嫁入り道具としたのも、この頃からである。

とはいえ、工業用途として余っている本縫いミシンはない。

当時は、企業単位はミシン50台の小組合という制約があり、早急に集めなければならない。

それでも、遊休の本縫いミシンは1台もなかったのである。

 

しかし、この土地はミシン刺繍の産地である。

シンガーのSW17(107Wと推測される)という刺繍ミシンならば、遊休のものが2,000台あったのだ。

1本針のジグザグ刺繍ミシンを本縫いミシンに改造することで、

桐生の縫製の礎となるのであった。

 

それが、朝鮮戦争景気に沸く1951年(昭和26年)には、

桐生市内において26軒のジャンパー屋があったという証言がある。

(話し言葉では、「ジャンバー」と濁った発音である)

「ジャンパー屋」としたのは、当時は景気が良い業種にこぞって

転業する人々が多く、刺繍業者がスカジャンの縫製まで手がけたり、

買継商がスカジャンを扱ったり、カツギ屋が縫製までやるようになったりと、

多くのライバルが参入し、混沌とひしめき合っていた。

 

さて、「糸へん」と「金へん」は、当時の桐生では車の両輪だった。

機屋の旦那衆と鉄工所のオヤジである。機械の修理や改造などはお手の物だった。

彼らはよく遊び、よく働き、政治力を存分に活かした。

そのなかのひとり、明仙彦作氏は1942年(昭和17年)、戦火が激しくなったことで、

桐生鉄工機械工業組合理事長として組合を解散、

残った元組合員たちと桐生鉄工株式会社を設立したが、終戦後、縫製業に転業している。

当初は横振り刺繍を生業とし、やがてスカジャンの縫製を手がけることになる。

今も残る日本で唯一、当時からスカジャンを作っている縫製工場の起源である。

 

戦後、すぐにスカジャンを縫っていた中には、戦争未亡人も多くいた。

分業制で多品種少量生産を伝統としてきた桐生の人々は、

市内の実に7割近くが繊維関連の仕事に従事していた。

夫を亡くし、幼子を抱えた彼女たちは、内職として家庭でミシンを扱い始めた。

昨年、桐生市内でみつかった11着のデッドストックは、シンガーの足踏みミシンで

まさにこの時代に縫製されたものである。

 

スカジャンはしかし、マイナーな商品だった。

それは、進駐軍のために作るものだったからである。

戦後価値観が大きく転換する中で、日本人は戦争は間違いだったと刷り込まれる。

「一億総懺悔」の言葉どおり、後ろめたい気分の中、それでも生活のために

作りまくった。作れば作るほど売れたのである。

また、新興産業の縫製・刺繍業界は、

織物業界に比べればアウトサイダーであることも影響した。

しかし、だからこそ自由な発想で様々なスーベニア商品を開発できたともいえる。

 

一方で、当時メジャーだった商品にレーヨンマフラーがある。

のちに桐生の戦後輸出品第1号となるこの商品は、アフリカ向けに大いに売れた。

ここで、桐生の先人の胆力が発揮されているエピソードを紹介しよう。

マフラーの受注は多いが、原糸の手当てが出来ない。

そこで、GHQ本部まで赴き、政府保管の輸出用人絹糸の凍結分の特別配給を受けている。

また、民間貿易再開時には、GHQと貿易庁と直接掛け合ってもいる。

そんな政治力を持っている先人が多数いたのが当時の桐生であった。

 

戦後、GHQからの発注で活況を呈した縫製業界だったが、

1949年(昭和24年)からの統制撤廃が進むにつれ、

翌年には1~2軒の縫製業者が残るのみとなってしまう。

物資の供給が豊かになっていった絹、人絹、綿の順に

順次統制が撤廃されていくことで、温室から野に放たれたのである。

ただし、前述したように分業制が発達した桐生では、

内職仕事として家庭でミシンを踏む女性は依然多かった。

 

 

群馬縫製の東京支店

「群縫しんぶん綴」より

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そんななか、1948年(昭和23年)6月、日本橋大伝馬町に東京出張所を開設した

縫製会社があった。群馬縫製である。1944年(昭和19年)に設立されたその会社、

桐生人には、グンポー(のちの社名)といった方が通りが良いかもしれない。

戦時中の企業整備により、織物工場から縫製工場に転換し、被服廠の監督のもと、

女性労働力を活かして軍服やメリヤス下着などを縫製していた。

終戦後、生産管理をしていた軍人も桐生に残り、内地向けの縫製業の先駆けとなった。

その後アメリカ向けブラウスを輸出したところ、堅牢度でクレームがついてしまい、

価格を下げ“ワンダラー・ブラウス”として輸出したら大当たりしたという逸話は、

たくましさとしたたかさを持つエピソードとして記しておきたい。

 

こうして少しずつ新しい産業である縫製会社がポツポツと芽生え始め、

進駐軍のスーベニア商品「スカジャン」として花開くことになる。