昭和21~25年に桐生で製作されたスカジャン
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私は、出会ってしまった。
2017年(平成29年)冬。
桐生で製作された証のデッドストックスカジャンに。
ビンテージスカジャンが、終戦直後、桐生の地で製作されていたことは知っていた。
アパレル業界やスカジャン好きの間では知れ渡った話ではある。
しかし、現代の桐生の人間はほとんどこのことを知らない。
織物産地として名声を誇ったから、絹・人絹織物の歴史は資料として残っているが、
縫製や刺繍、リブやジッパーについての記述はほとんどない。
果たして、本当に製作されていたのか、そんな疑問が常に頭に浮かんでいた。
それが、この出会いによって確信に変わった。
知っている刺繍屋の名前が出てきたのだ。
今はないその刺繍屋。しかし、確かにそこにあった息吹を感じた瞬間だった。
これ以降、織物組合関連の資料を読み漁り、
当時の織物、縫製、刺繍、リブ、ジッパーを扱う事業所を調べ上げている。
調べれば調べるほど、桐生が隆盛を誇った織物業界の歴史や戦争の歴史を知らないと
スカジャン誕生の秘密に迫れないと考えるようになる。
新しいものにも臆することなく果敢に飛びつく進取の気性、
中央政府機関やGHQとのパイプ、
貿易を通じて絹織物産地として世界中に名声を誇ったこと。
昭和21年桐生祇園祭の様子。進駐軍のジープが写る
「桐生・伊勢崎・みどりの100年(郷土出版社)」より
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歴史は現代と地続きである。
スカジャンを知らない人たちにも知ってほしい歴史がある。
だから、地道に「桐生とスカジャン」を綴っていく。
現代の桐生人が、この地でスカジャンが生まれたことを知らないのは当然だった。
当時の桐生人は、つい先日まで鬼畜米英のスローガンのもと戦ってきた相手のために、
あらゆる技術の粋を集めた豪華絢爛なスーベニアジャケットを作りまくった。
生きるために、後世に名前を残そうななどと考えもせず、
デザイナーのいない日本生まれの洋服「スカジャン」を短い期間に大量に作りまくった。
職人自身が作り上げた歴史は、GHQの占領政策終焉とともに、しだいに忘れ去られていく。
職人自身もまた、高度経済成長期の波に乗って、いつしかスカジャンのことを忘れていった。
記録として残されることはなかったが、人々の記憶に強烈に残ることになったのは、
資料などが存在しないことで伝説化していったことも大きい。
人々の想像で思い思いのストーリーを作り上げることができることが
スカジャンの魅力のひとつなのだろう。
私は、ひとりのビンテージスカジャンファンとして、確かなエビデンスを調べ上げ、
記録として後世に残していきたい。