桐生とスカジャン1~スカジャン誕生前夜~

進駐軍の兵士たち。本町6丁目付近で

(「思い出のアルバム桐生」より)

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1945年(昭和20年)8月15日。太平洋戦争敗戦。

 

奇しくも、この敗戦によって「スカジャン(スーベニアジャケット)」が誕生することとなる。

いまでもコレクターの間で高値で取引される、いわゆるビンテージスカジャンは、

奈良時代(今から1300年前)に起源を有する織物の産地・群馬県桐生市で生産されていた。

玉音放送の翌月、9月13日には、早くも進駐軍のアメリカ兵(米兵)が桐生を訪れている。

このときの目的は、帰国土産の織物や繊維製品を購入することだった。

 

戦時中の桐生は、大きな空襲がなかったため、工場設備などが残されていた。

大規模の織物工場は軍需工場に転用されており、鉄製力織機は供出されていたが、

残存していた5,601台の織機で、絹や絹人絹交織の落下傘生地や国防服の裏地などを

指定生産しており、終戦時はかなりの量の在庫がひそかに工場内の倉庫に置かれていた。

 

進駐軍が駐屯した旧日本絹撚株式会社事務所棟(現絹撚記念館)

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10月5日。旧熊谷飛行学校に進駐していた米陸軍第97師団は、将兵33人を

桐生に送り込み、旧日本絹撚株式会社事務所棟(現絹撚記念館)に駐屯する。

ちなみに、10月10日に旧前橋陸軍予備仕官学校(榛東村)へ2千人、

太田の中島飛行機工場へ千人を進駐させ、のちに軍政本部とする。

翌11日には、高崎の旧東部三八部隊兵舎に200人の米兵が進駐している。

群馬県のなかで、より早く桐生に進駐した理由は、徐々につまびらかにしていく。

 

桐生において、戦前の1935年頃に、当時の先端素材・人絹(レーヨン)織物は、

生産額1位であり、日本の輸出品の第3位となっている。

活況を呈していた桐生では、カフェーや料理屋などが軒を連ねていたが、

戦中から戦後にかけ、飲食業も転廃業を余儀なくされていた。

そんななか、米軍将校との懇親会が行われたのは、戦前から続くとある料亭だった。

 

多くの市民は手持ちの衣料や装身具などを持って、農村で食料と物々交換していた。

桐生駅は連日、リュックサックや風呂敷を背負った買出し部隊でにぎわい、

末広町通りや本町通りには露天が並び、闇市が形成されていった。

当初恐る恐る米兵の様子をうかがっていた市民は、

フレンドリーで裕福な彼らの姿を見るにつけ、

やがて片言の英語を使い、日本人形や雛人形、扇子や織物などを

煙草やチョコレートなどと交換し合うなど、したたかに打ち解けていった。

 

錦町ロータリーで交通整理する進駐軍兵士たち

(「思い出のアルバム桐生」より)

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米軍将校と桐生の有力買継商との懇親会は有意義なものだった。

それは、桐生の横振り刺繍技術と米兵の戦時における服飾カスタム文化との

本格的な最初の出会いであった。

9月13日の視察によって、桐生のモノづくりの技術に価値を見出した将校は、

駐留記念として手持ちのジャケットにカスタムすることを思いつく。

買継商たちは、縫製や刺繍の技術を持つ人々に依頼した。

そのなかには、多くの戦争未亡人もいた。そういった人々に支えられていたのだ。

 

「西の西陣、東の桐生」。

桐生の職人たちは、進取の気性を持っている。

都としての伝統を誇る京都に比べ、桐生は開放的で排他的なところがなく、

雑な一面、愛される市民性を持つという。

組合中心に輸出にいち早く取り組んだり、先端素材の研究に取り組むなど、

時代とともに変化を伴いながら進化してきた。

モノを作ることができたことが、戦後の桐生市民にとって、大いなる助けとなったのだ。

 

戦争は政治の決断である。敗戦は国民を追い詰め、傷つけた。

でも、だからこそ、スカジャンが生まれた。

73年たった今でも残る当時のスカジャン。一度は兵士とともにアメリカに渡り、

1990年代に日本人バイヤーやコレクターによって再び日本の地を踏むスカジャン。

 

その誕生は、東京から100キロ離れた小さな地方都市・桐生での

米軍将校と買継商との出会いからはじまった。