桐生とスカジャン2~レーヨンサテン~

昭和初期の桐生の織物工場の様子

「桐生・伊勢崎・みどりの100年(郷土出版社)」より

—————————-

人絹(じんけん)。

終戦当時、レーヨンは人絹と呼ばれていた。いまでも、当時を知る人々から

話を伺っていると、「じんけん、じんけん」と耳にすることがある。

字面の通り、最高級素材・絹のように滑らかで、艶感のある美しい生地である。

 

朱子織(しゅすおり)。

生地の織り方のことで、当時はサテンバックなどとも呼ばれる裏朱子織も存在した。

いまでも、年配者からは「しゅす、しゅす」と聞くことも珍しくない。

密度が高く、光沢が強いが、引っかかりに弱いなどの特徴がある。

 

素材と織り方をあわせたこの「レーヨンサテン」と呼ばれる生地。

これが、今日でも目にするビンテージスカジャンの生地である。

特に1940年代後半から1960年代初頭のこの時期、

戦前から世界中を席巻していた桐生の人絹織物が使用されていた。

 

昔から絹(シルク)は最高級品で、主に和装のお召しなどに重用されていた。

アセテートはこの時期はまだ実用に至っていない。

桐生での織物の生産実績は1962年以降である。

市場には圧倒的に人絹織物があった時代なのである。絹より安く糸を仕入れることができ、

努力しだいでたくさん織物を作ることができた。世界がこぞって欲するのも無理はない。

そして、この素材を早くから市場に投入したのが桐生人であった。

 

昭和初期の帯地展示会の様子

「桐生・伊勢崎・みどりの100年」(郷土出版社)」より

—————————-

 

1918年(大正7年)、国産人造絹糸を緯糸に使用した文化帯、これが日本初の人絹織物の

本格的な商品化の先駆けであった。桐生人が生み出した商品である。

繊維産業、織物業界というのは、当時の花形産業であり、国の強力な保護政策も後押しした。

不況の時代にあっても、織物の町・桐生には、東北や北陸などから多くの女工が

足を踏み入れたのにはこういう理由があった。

 

さらに桐生人のベンチャー気質を列挙するならば、明治時代にすでに

絹織物の羽二重を全国の輸出商品に先駆けて独自にアメリカに輸出している。

横浜にあった外国商社と取引するために当地に進出したり、アメリカへ洋行したのも、

他産地にくらべて桐生人が一番早かった。

幕末から明治にかけての機屋、買継商は、江戸との交流が盛んであったため、

文化レベルも高かった。

これらは、桐生人が当時から中央機関との強力なパイプがあったこと、

アメリカは桐生が絹・人絹織物の日本一の産地であったことを知っていたことを意味する。

 

1929年(昭和4年)の世界恐慌により、

輝かしい栄華を誇った日本の絹織物の輸出は半減した。

それに取って代わるように人絹織物が席巻していったのである。

世界各地に駐在員を置き、東南アジア調査団を組織し、徹底した市場調査を行った。

インド地方にフランス産の織物が大量に輸出されているのを知り、

研究を重ね、新商品を開発しまくった。

 

欧米、東南アジア、豪州、南アフリカなど、商機ありとみるや、風俗や習慣を調査して、

よりよい商品を次から次へ売り込んでいった。

この成功の裏には、組合が重要な役割を担った。

中小零細機業が時代の荒波に立ち向かうのは大変なことで、

経済が不安定なこの頃には吹けば飛んでしまうようなことも多かった。

そこで組合である。戦前の工業組合法は強力で、

カルテルなどの実施権限を持つ中小零細機業は、伝家の宝刀を持つこととなった。

 

満関支といわれる中国各地にも盛んに輸出されていた。

資源小国・日本の租借地であった関東州はじめ、中国は重要な戦略的拠点であり、

自給自足体制を敷くべく、列強国に挑んでいった。

世界はこれを脅威とみた。高率関税や輸入割当制度の実施などにより、

世界中が日本の商品の輸出阻止のためにあらゆる手を打ちはじめることとなる。

 

2.26事件が発生した1936~37年(昭和11年~12年)、

桐生の織物業界は史上最高の時期を迎えることとなる。

輸出に制限がかけられる中、アメリカの旺盛な需要を背景に活発な商いが行われ、

やがてアメリカを抜いて世界一の生産を記録するのは皮肉である。

 

 

昭和22年~39年の桐生産地原糸使用量表(単位:万kg)を表す手書きのグラフ

近代桐生輸出織物の歩みより

—————————-

 

 

戦後混乱期の話は今後の内容に譲るとして、最後に人絹織物の衰退時期を見てみよう。

1957~58年(昭和32~33年)のナベ底不況により、

人絹糸は5割の操業短縮を強いられた。供給過多となったわけである。

政府は、絹・人絹織物織機などの過剰織機買い上げを断行。

多くの機屋が転廃業に追い込まれていった。

 

続く1958~1961年(昭和33~36年)の岩戸景気で経済はふたたび好転し始める。

しかし、構造変化の波が押し寄せていた。花形産業であった織物業界は、その座を

鉄鋼、造船、自動車、機械金属、電気などに奪われていく。

4月には「第2の黒船」といわれる自由化体制を迎えることとなり、

従来の温室育ちから厳しい国際競争の風にさらされることとなっていく。

 

大正時代後期から約40年間桐生を支え続けた人絹織物は、

高度経済成長期と反比例するように、

アセテートやナイロンなどの合成繊維系の織物に押されていく。

もし、あなたの手元にアセテート製のビンテージスカジャンがあれば、

それは1960年代以降のものと判別することができる。

 

 

SNSでもご購読できます。