桐生とスカジャン5~進駐軍~

現・桐生織物記念館

1934(昭和9)年築・国登録有形文化財

—————————-

 

1945年9月13日、終戦から約1ヶ月たった桐生織物会館旧館

(現・桐生織物記念館)に、進駐軍が群がっていた。

市内の織物業者は、戦争で販売できなかった製品や

徐々に再開して織り上げてきた製品を集めて進駐軍の土産品として売り出した。

主な製品はハンカチ、ネクタイ、マフラー、テーブルクロスなどだったが、

人形や羽子板も販売され、たいへん好評を博したという。

 

この頃の進駐軍は、陶磁器や絹織物などを探すため、

日本各地の産地を訪ね歩いていた。

理由は、主に2つある。

ひとつは、スーベニア(お土産)商品を探すことであり、

駐留地の特徴ある土産品を持つ、あるいは贈ることで、

自身への誇りや家族への愛情を確認しようとした。

もうひとつは、軍需用として生産されたすべての物資を把握するためだった。

国民生活の安定のためには、物資の生産、供給を円滑にしなければいけない。

戦争目的にのみ集中してきた戦時経済は一変して、国民の生活維持と

これからの復興に向かって動くことに重点を置くことになった。

 

桐生は絹・人絹織物の産地として有名であっただけに、その在庫品も多く、

いろいろな角度から目をつけられていた。

8月26日に設立された「終戦連絡中央事務局」が国内物資の整理を担当したが、

当時、一般の人は金融機関から金を借りられなかったため、

「糸へん」の経営者たちが力を尽くした。

滞貨物資を商社に流すために組織を作る人々が現れたり、

進駐軍の許可を得るため、日本織物配給統制会社との連携を図ったり、

正規ルートで商品を流通させることに尽力した。

それでも密かに隠し持っていたり、ヤミ市に流れる物資ははるかに多かった。

同じ「糸へん」の経営者でも、対馬経由で密輸を図って逮捕された人物もいる。

1949年からスカジャンを生産している明仙縫製社長の明仙泰作氏によれば、

幼少期(1940年代後半~1950年代前半)に出入りしていた織物工場の屋根裏には、

絹の落下傘が山積みにされていて、その上を飛び回って遊んでいたらしい。

 

はじめて桐生の地を踏んだ進駐軍たちは、大いに目を輝かせていた。

特に絹製品に対する憧れは強く、羽二重に富士山や芸者ガール、

横浜・横須賀・日光などの図案を刺繍したハンカチーフ、マフラーなどが

飛ぶように売れ、それらを売る店は「スーベニヤ」として特別に認められた。

当時のアメリカで刺繍といえば、ハンドルミシンによるチェーンやシニールが主流である。

和装品などに施された繊細な横振り刺繍に魅了されてもおかしくはない。

戦災を逃れた桐生の繊維産業はすぐに生産することが可能であり、

表も裏も光も闇も関係なく、生きるために競って作りまくった。

スカジャンの誕生はそれから間もなくのことであった。

 

焼き払われた横浜。左上に大桟橋、右にホテルニューグランド

「日本帝国の最期」(新人物往来社 )」より

—————————-

 

進駐軍がどのように日本を占領していったのか、おおまかにその経過を見てみよう。

8月30日午前9時半頃、横須賀で完全武装の海兵隊員約17,000名が上陸

同日午後2時過ぎ、連合国最高司令官にして米極東軍司令官(Far East Command)

マッカーサー元帥が、厚木飛行場の夏草の上に降り立ち、横浜に進駐した。

9月2日午前11時半頃から、横浜港の大桟橋等に米第8軍の騎兵第1師団4~5000名が

上陸を開始し、同日午後から翌3日にかけて、第8軍の主力部隊が相次いで上陸した。

9月17日、総司令部(General Headquarters=GHQ)は東京赤坂の米大使館へ移り、

10月2日から日比谷第一相互ビル(現・第一生命日比谷本社DNタワー21)で執務開始。

米第8軍司令部は横浜を本拠地とし、12月末で94,094人を数えた。

当時の進駐軍将兵のおよそ4分の1が横浜に集中していたことになる。

駐日空軍(第5空軍)が名古屋に最初に進駐したのは9月26日。

後続の米軍25師団の主力部隊約27,000人が名古屋港に入港したのは、10月26日。

当初、東日本が第8軍、西日本が第6軍の管轄であったが、

第6軍司令部は12月31日に解散し、日本全域の占領は以後第8軍によることとなる。

その司令部が置かれた横浜は日本全土(沖縄を除く)にわたる占領の本拠地となった。

 

進駐軍による日本全国への兵力展開は極めて迅速に行われ、

9月末にほぼ内地進駐を終え、10月には北海道、松山の進駐を完了。

桐生には10月5日、旧熊谷飛行学校に進駐していた米陸軍第97師団の

将兵33人が、旧日本絹撚株式会社事務所棟(現絹撚記念館)を接収、駐屯する。

他に接収された建物に、金善ビル(現存している)、旧金木屋旅館などがあった。

 

このように進駐が迅速に成し遂げられたのは、

米陸海軍の空軍情報部隊による情報活動に負うところが大きい。

戦争中に上空から写真を撮影し、日本全土の道路地図を作製するなど、

徹底的に日本の研究をしていた。

日本各地への進駐兵力は、展開がほぼ終わった10月末には総員30万人、

11月末に43万人、12月中旬に45万人を超えてピークに達している。

こうしてアメリカは、圧倒的な力を日本人にも、そしてソ連にもみせつけることに成功した。

そして、占領の本拠地・横浜に、桐生からのスーベニア商品が続々と届くようになるのに、

それほど時間はかからなかった。

 

 

当時の日常の生活を見てみよう。

以下は、戦中戦後の桐生織物業界を代表する木村一蔵氏の著書、

「桐生の歩みの中で」(桐生タイムス社)から引用する。

 

「洗濯するにも風呂に入るにも石鹸も洗剤もなく、

塩、砂糖、食用油などもちろん貴重品でなかなか普通の手段では手に入らない。

衣料品はつぎあてをする有様で、常に蚤、虱、蚊、南京虫に悩まされていた。

多くの戦災孤児や罹災した人々の生活など、これからの国の方針がわからず、

暗闇を手探りで歩く感じだった。

帰還兵が帰り始めると同時に、戦没者の公報が入ってくる。

そうした悲喜こもごもの中に生きなければならない。

どうして生きていくか官民ともに個人の生活と同時に、

国の再建のあり方にも真剣に取り組まなければならなかった。」

 

木村氏は当時35歳。終戦間近の7月に召集令状がきて出征している。

熊本市の熊本西部第65部隊で終戦を迎え、9月3日に桐生に帰還した。

当時の状況を少しでも感じられるよう、さらに引用を続ける。

 

「軍隊が進駐してきた場合、私達はどんな扱いを受けなければならないだろうかと、

国土を侵された事のない日本国民は唯不安のみであった。しかしその反面、

天皇の命によって戦争が終結し国内に於いての戦いが行われないことになり

もう空襲はないという安心感とが、人々の心の中に交錯していた。

この頃の社会状況はその時代に直面しない人々にはとても理解できないと思う。」

 

「(終戦を迎えたが)決起にはやる若い将校、下士官達はあくまで戦う決意で

敵軍の進入に備えるべく気勢をあげており、戦う事のみに集中して培われてきた

気持ちのはけばのない、やるせなさを、どうしたらいいのかと訴えているようすであった。

しかし妻子を持つ我々年配のものは早く帰郷したい気持ちでいっぱいであった。」

 

「熊本駅に一張羅の軍服をまとい、南京虫に食われて栄養不足のため化膿した足を

軍靴も履けぬまま、足袋裸足の姿で貨車に乗せられた。そこにはもう将校も下士官もなく

皆同じ仲間として同車していた。帰途原子爆弾によって焦土と化した広島駅を

通過した時は、原爆の身体に及ぼす影響の気味悪さと罹災された方々に対する

気の毒さで唯、早くここを通り抜けたいという気持ちであった。

大阪に着いてみると此処も焼け野原であったが、バラック建てのお店で

温かい食事をとらせて貰い親切に扱っていただき

やっと人間らしさを取り戻したようであった。」

 

「やせ細った身体に目ばかり鋭く食べ物もなく、唯きょろきょろと物欲しげな

人々の姿が目立ち、食事を求めて歩く道すがら誰かが吸い残した火のついている

煙草の吸いがらを私の戦友がすばやく拾って、さもうまそうに吸っているその姿を

みるとき、他人事でなく自分もできればそうしたいと思った。

生きて行くためには恥も外聞もなくなる人間の本能を、哀れに思えてならなかった。」

 

使命感にあふれる語り口であり、生々しい貴重な証言である。

大きな古時計の振り子のように、社会情勢も感情も振り幅がとてつもなく大きい時代だ。

だからこそ、人もモノもエネルギッシュでパワフルだった。

こういう状況でスカジャンが生まれたことを想像するとき、

いま手元にある「里帰り」したビンテージスカジャンの歴史に重みが増す。

 

 

戦争は経済活動のひとつである。

景気も左右されるし、人生も左右される。

その時代の法制や情勢によって、人々は食うために行動し、職業を選択してきた。

新たな顧客を探し、何が売れるかを体験を通じて学び、絶え間ない商品開発を行い、

ここぞというときに投資をして、売りまくるのだ。

進駐している米軍兵士という新たな顧客をみつけた桐生の人々が、

刺繍業や縫製業を起業したり、鞍替えしたのも納得できる。

自転車屋から刺繍屋になったり、鉄工所から縫製屋になったり、

はたまた帰還兵を雇って、SPAのハシリともいえる業態を確立したり。

戦前から織物を中心とした糸へんに関わる産業の活気が

街のあちこちにあふれて、商工業の発展を促進していた。

華やかな街の空気が織物の経糸のようにピンと張り続けていた。

 

時々、考えざるをえない。

この時代に自分が生きていたら、どうやって生き抜いただろうか?

そんなことを考えるのは無駄だと思うかもしれない。

でも、決して無駄なことではない。

現代は生まれながらにして、世界的な激流の只中に放り込まれる。

当時の歴史を知り、人々の行動に想いを馳せることは、

いまを生き抜く知恵を身につけることでもあるのだ。

ビンテージのスカジャンが、そのことを教えてくれている。