シンガー社の横振りミシン(桐生市観光交流課)

—————————-

 

あなたは、「横振り(ヨコブリ)」という名前を聞いたことがあるだろうか。

縫製で使用する本縫いミシンと違い、押さえや送り歯がなく、

文字通り、針が左右に動く刺繍ミシンで縫われた刺繍のことである。

多くの人々は横振りミシンや手振りミシンと言うが、これは通称で、

正式には千鳥ミシンという。当時はジグザグミシンとも言われていた。

(以下、分かりやすくするため、通称の「横振りミシン」を使用する。)

シンプルな構造だが、刺繍する際には生地を柄に合わせて動かさねばならない。

さらにレバーを右足の膝で調節することで、振り幅を自在に操る。

ビンテージスカジャンといえば、横振りミシンで縫われた刺繍が最大の特徴である。

 

現在主流のコンピューターミシンは、平坦できっちりと綺麗に仕上がり、

複数縫っても同じ刺繍ができるが、横振りミシンでは一枚ずつ職人が縫う。

ゆえに、同じ柄でも多少のバラつきが出るし、同じ柄を違う職人が縫えば

さらに個性的なものが仕上がることもある。

桐生では1970年代頃から、コンピューター制御の多頭式ジャガードミシンが

主流となっていく。横振りからジャガードへ。この変化もドラスティックであったが、

戦前の手刺繍から横振りミシンへの転換も生産性向上に大いに寄与した。

 

時計の針を大正時代に戻そう。

この時代にミシンの輸入が本格的に始まっている。

1910年代に日本国内の衣料品製造業の構成はおおかた形成されている。

軍服や足袋、靴、鞄などをはじめ、

シャツ、メリヤス下着、外套(コート)などの生産が盛んになっていく。

それらの用途に合わせて、実に多様な種類のミシンが開発されたのだ。

主要な港のある横浜や神戸などに出店していたアメリカのシンガー社のミシンは、

独自の販売方法によって、日本国内のテーラーや中小工場、

さらには家庭にまで浸透していくことになる。

 

桐生でもミシン問屋を通じて、多くの横振りミシンが導入されている。

機械・電気修理の職人も多かったから、ミシンの改造も頻繁に行われた。

当時の刺繍工場では、交互に向かい合う状態で10台ほどの横振りミシンを設置し、

すべてを同時に動かすために、1台のモーターを動力とし、

ミシンの上部から各ミシンのプーリーに革ベルトをかけて稼動させた。

1台のモーターを動かすと、10台の横振りミシンがすべて動くということになる。

元々和装関連の刺繍が多かった桐生地区では、大きい柄で振り幅を必要としたため、

シンガーの103型本縫いミシンを改造したミシンが主流になっていく。

当時を知るお年寄りは「ひゃくさん」と呼んでいたようだ。

後年、隣の栃木県足利市に設立されたミシン会社のSTAGERという横振りミシンは、

桐生人の設計であったという逸話も残っている。

 

明治時代、京都・西陣から手刺繍の職人を迎え、桐生の刺繍業がはじまった。

やがて、横振りミシンが普及するにつれ、生産性が飛躍的にあがる。

多品種少量生産で、分業制にも磨きがかかり、

半襟、袱紗、鏡台掛けから仏具、和装品などへの刺繍が流行となる。

もともと織物や撚糸、染色などが盛んな地域だった桐生は、

ミシンの普及により繊維製品のすべての工程をこなすことができる地域として

全国的に知られた存在となっていく。

 

齢91歳(2019年当時)、現役の刺繍業の社長が桐生にいる。

満蒙開拓青少年義勇軍だった周東氏は、1948年(昭和24年)10月にシベリアから帰還した。

当初、警察官になることも考えたが、家業である刺繍業を継ぐ決意をする。

その頃、スカジャンをはじめとするスーベニア商品の製造が活況を迎えていた。

1916(大正5)年に刺繍業を創業した実父は、

ミシン問屋の堀越氏から、桐生で最初に横振りミシンを習った5人のうちのひとりである。

戦中から刺繍組合の長をしており、スーベニア商品の情報などがいち早く入る立場であり、

戦後の物資のない時代でも、仲間とともに新商品開発に明け暮れた。

米兵の軍服に直接横振り刺繍を入れたのも周東家が初めてだった。

当初はハンドペイントしたものも多かったが、日本独特の横振り刺繍となると、

産地である桐生の力は大きかった。

 

その当時、国産ミシン事情はどうだったのだろうか。

東京のパイン裁縫機械製作所(現・蛇の目ミシン工業株式会社)や

名古屋の安井ミシン兄弟商会(現・ブラザー工業株式会社)などが台頭しはじめていたが、

主に修理などが中心の事業で、パリ条約における特許障壁の影響もあり、

おおよそ1930年代から活発になっていくことになる。

ちょうどモボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)が登場したこの頃、

日本社会の道徳観は急速に変化していた。

この頃の日本は欧米諸国とは良好な関係を築いており、桐生は海外でも名を馳せた。

絹・人絹織物の産地としてアメリカをはじめ、アジア、アフリカにまで進出していた。

高等小学校を卒業した多くの女子が、横振り職人になるために桐生を目指した。

時代は、日本を列強国の一国へ押し上げようとしていた。

 

大東亜戦争の激しさが増すなか、桐生のミシン刺繍技術は統制上の保護のもとにあった。

戦後は、空襲がほぼなかったため、ミシンなどの小規模の設備は残っていた。

夫が戦死したある未亡人は、子供たちを育てるために

嫁入り道具であったシンガーの足踏みミシンで、縫製の内職をはじめた。

近所には、評判の横振り職人たちがいた。15~6歳の少女である。

横浜や横須賀あたりに出来上がった製品を持ち込めば、飛ぶように売れたから、

刺繍屋で内職を抱えることも多く、大忙しとなっていった。

やがて、1949年には業者が結束して「桐生スーベニア(土産品)協会」が設立され、

1959年時点では、輸出・内需向け含め、全国の横振り刺繍生産の85%を桐生で担っていた。

ある町内では、隣組のうち3分の2が個人で刺繍業を営んでいたという。

 

ミシンが普及すると、織物産地イコール衣服産業の産地とは限らなくなり、

日本全国どこでも縫製や刺繍が可能となっていた。

織機などを設備するには大きな資本が必要だが、

ミシンなら個人が少額でもはじめられたからである。

こうして米軍基地周辺で横振りミシンを扱うネーム、パッチ刺繍業者が増えていった。

ただし、技術者が最初から各地にいたかというとそれは疑問だ。

その疑問への答えは、戦後の桐生市長の戦略にあった。

当時の前原一治市長は、横振り刺繍の産地であり、多くの職人がいた桐生から、

全国各地に技術者を派遣していたのだ。

横振り刺繍の技術者を各地に派遣することで、ものづくり拠点としての桐生を宣伝

することになる。物資が不足している時代とはいえ、

レーヨンサテンの生地やリブジャージを生産しているし、

縫製業者も充実しはじめた時期だから、全国への供給拠点にもなりうると考えたのではないか。

横須賀をはじめ、佐世保、沖縄など全国に、桐生から横振り職人たちが移住した。

わずかではあるが、いまでも刺繍を生業としている人々が各地で健在なのである。

 

日本が戦争をはじめた理由は、海外から資源の輸入を止められたことが大きかった。

だからというべきか、日本人は資源を加工することが得意である。

あるいは、工夫してこれまで以上のものを生み出すことができる。

絶え間ない努力で付加価値を最大化することに長けているのである。

職人が扱う横振りミシンで縫われた刺繍製品は、70年以上たったいまでも、

世界中の人々(ごく一部だけれども)を魅了している事実がある。