【コラム1】「ししゅうのふるさと桐生」発刊にあたり

桐生製スーベニアジャケットなど

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桐生刺繍商工業協同組合の組合創立50周年記念誌「ししゅうのふるさと桐生」に

掲載予定だった拙稿をコラムとしてここに掲載します。

 

●”スカジャン”とは何か

現存する世界最古の国家である日本が、長い歴史の中で唯一、他国に占領されたことがある。

その占領期に誕生した「スカジャン」のほとんどを桐生で生産していたことはあまり知られていない。

スカジャンという呼称は、「ヨコスカジャンパー」の略である。

1960年代に映画や雑誌に登場し、70年代に定着していく若者言葉である。

それ以前は桐生ではジャンバーや刺繍ジャンバーと言われており、

英語ではスーベニアジャケット(Souvenir Jacket、お土産あるいは記念品のジャンバーという意)が

正式名称といえる(以下、スーベニアジャケットという)。

スーベニアジャケットばかりが注目されるが、

当時はスーベニアになりそうな布製品はたいてい製作されていた。

マフラー(今でいうストール)、ハンカチ、クッションカバー、ベッドカバー、テーブルクロス、

シャツやパンツ、ガウンやスモーキングジャケットなどアメリカ文化を強く感じさせる商品群である。

 

第2次世界大戦での敗戦により、

昭和20(1945)年からサンフランシスコ平和条約発効までの約6年8ヶ月の占領期は、

日本がはじめて経験した屈辱であり、戦争からの解放と自由を手にした瞬間であった。

新たな混乱や軋轢を生み出しながら、アメリカの文化がダイレクトに日本に作用していったのである。

日本を占領したアメリカ軍を中心とするGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、

昭和20(1945)年12月には全都道府県へ進駐し、総兵力は最大で約45万人に達した。

 

アメリカ軍の兵士たちは、第1次世界大戦時から世界各地の戦場で

スーベニア(土産品、記念品)を手に入れてきた。

死と隣り合わせの現場で戦う人々にとって、生きている証として、

その土地の特徴あるものを購入したり特注することは必然だったといえるだろう。

日本においては、着物や雛人形などの華やかな色使いが兵士たちを魅了した。

革の飛行服にペイントを施すなどのカスタムも盛んで、

刺繍パッチ(ワッペン)やチェーンステッチでチーム単位の

オリジナルジャケットを製作する流行とが相まって、

世界各地の占領地域でのスーベニアの誕生につながっているといわれている。

 

桐生におけるスーベニア生産の時代的区分としては、

スーベニア誕生初期(1945~49年)、

朝鮮戦争特需による最盛期(1950~53年)、

アメリカ軍の世界展開による発展期(1954~59年)に大別できる。

なお、1960年以降は日本人が流行として着用するようになるため、

厳密にスーベニアといえないこと、他地域でも生産されていることなどから特記しない。

 

 

●当時を知る古老が語る

愛好家や収集家が世界中にいるビンテージスーベニアジャケットの世界。

そのほとんどを生産していた一大生産地は、戦後間もない桐生だった。

どのような経緯で誕生したのか、また、なぜ桐生で生産されていたのか。

ここでは、桐生刺繍業組合初代組合長の周東清三氏の息子である繁夫氏の話を中心に展開する。

 

大正5(1916)年、機屋だった境野の堀越光章氏から

桐生ではじめて横振り刺繍を教わった5人衆のうちのひとりである周東清三氏は、

地域の刺繍業者からも頼りにされる人物だった。

戦時中の通称七・七禁令の影響でミシンを供出することになり、

一時期働いていた沖電気(桐生に戦時疎開していた)で数人の仲間と出会う。

戦後、そのうちのひとりから横浜の貿易商を紹介され、

スーベニア商品の開発へと足を踏み入れた。

当初は、兵士たちの支給品である軍服へのカスタムを施したのが、

桐生で最初に作られたスーベニアと言われている。

その後、支給品への刺繍加工は上官から禁止されるが、

軍服を模したレーヨンサテン素材のシャツや一重のスーベニアジャケットが生産された。

昭和23(1948)年10月にシベリアから日本に帰還した繁夫氏は、

当初は警察官になることを考えたが、スーベニア製作で多忙な父の仕事を引き継ぎ、

翌年3月から横浜に足しげく通うようになる。

横浜の伊勢佐木町周辺はGHQに接収されており、

多くの兵士がスーベニアを求めるようになっていた。

その中のひとつにリリーさんという中国人が経営する昭和堂というスーベニアショップがあり、

毎日のように横浜まで納品にいった。

ヤミ米をかついで都心に入るカツギ屋が毎日のように経済警察に検挙される中、

スーベニアジャケットを担いだ繁夫氏もあやうく検挙されそうになったことがある、

というエピソードが当時の社会情勢を物語る。

このように、桐生のスーベニアは最初期には横浜で取引をされていた。

周東家には他にも、桐生出身者が伊勢佐木町でスーベニアショップを経営したり、

銀座のPXに出入りしていた業者もあったと伝えられている。

また、GHQの本部があった銀座の露店でもスーベニアジャケットが販売されていたが、

それは横浜の業者が経営していた露店で、繁夫氏が直接納品したこともあったという。

 

桐生は古くからの繊維産地である。京都や北陸などの産地と違い、

首都圏に近いというメリットがあり、進取の気性に富む人々が多かった。

のちに群馬県刺繍工業組合の理事長も務めた清三氏は、

戦後の刺繍業界に多大な影響を及ぼしたが、

スーベニア生産においても独占することなく、他社と情報共有し発展の祖を築いた。

横浜のスーベニアショップでは、桐生の刺繍業者同士が鉢合わせすることも多かったという。

組合として品質向上や材料調達などを行う一方で、

健全な競争環境を整えた清三氏のような人物がいたからこそ、

桐生がスーベニア生産の拠点となりえたのではないかと考えられる。

 

伊勢佐木町にあったYOKOHAMA P.X.

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●”スカジャン”の刺繍はこうして作られた

桐生におけるスーベニアグッズの歴史はほとんど残っていないといっていい。

多くのスーベニアはすでに廃棄されている。

それでもいくつか戦後すぐに生産された形跡はある。

ここでは、当時生産されたスーベニアジャケットに見られる特徴や

発見された資料から読み解いた刺繍の製法を検証してみたい。

 

おおまかに絵柄デザイン→形紙製作→型付け→横振り刺繍→仕上げとなる。

絵柄は受注先から指定されることもあれば、自社内で企画するものもあった。

周東家では、繁夫氏のご兄弟が絵心があったため、デザインを担当した。

完成予想図の絵柄が出来ると、次は「形紙(当時の表記まま)」を製作する。

型染め用に柿渋で加工した渋紙を用い、完成図を参考に下絵を作成し、型を彫る。

彫り師が並列に2本並べた彫刻刀などで彫りだしていく。

細かいドットの点などはポンチで穴を開けるように彫るが、

その際にどうしても切りきらない部分を内職者がとっていく。これを「めざらい」と言った。

次にいよいよ形紙を使って、生地に「型付け」を行う。

ふのりやニカワ、米をといたのりなどを元糊として、

白色にするには亜鉛華を、青色にするには青華などを配合し、型付け用の糊をつくる。

生地に形紙をあて、丸刷毛で糊を刷り込む。形紙をはずせば、刺繍する際の目印となる。

これをベテラン職人が1着分仕上げ、

それを見本として見よう見まねで女工さんたちが縫っていく。

刺繍職人は学校を卒業したばかりの年端もいかない女性が多く、

歩合制で競うように朝から晩までミシンを踏んだと伝わっている。

仕上げでは、表側の「目飛び」などを補修したり、

裏側の糸を「はぎり」したりするほか、裏側を糊で固める細工を施した。

これは糸がほつれたりしないようにするためであり、

のちに熱を当てて見栄えよくする効果もあった。

かくして刺繍した裁断物が縫製職人の手に渡り、完成へと向かっていくのであった。

 

1960年以降になると、桐生におけるスーベニア生産は下火になる。

再びスーベニアジャケットが日の目を見るのは、

セレクトショップが台頭しはじめた時代、

日本人バイヤーたちがアメリカでビンテージ古着を発掘する中で再発見してきたが、

生産地である桐生が注目されることはなく、桐生の人々にも忘れ去られてきた。

80~90年代には、ビンテージスーベニアジャケットを模して、

現代の技術で再現しようとするアメリカンカジュアルブランドが多数立ち上がるが、

生産地はすでに中国などの海外生産が主流となっていく。

 

 

●桐生の刺繍史から考える

ジャパニーズスーベニアジャケットは、敗戦によって生まれた。

外国人の顔も見たこともない多くの若い女性たちが、

東北や北陸、上越などから桐生を目指した。

桐生に行って横振り刺繍を習得すれば家族を養うことができる、

そう言って誘う斡旋業者も多くいた。

そして今、一度太平洋を渡ったスーベニアが、数十年を経て、再び祖国に里帰りしている。

一説には、ジャパニーズスーベニアジャケットの8~9割は日本人が所有しているという。

 

占領期には進駐軍に関するネガティブな報道は検閲されていた。

進駐軍による一般の日本人に対する犯罪は少なくなかったが、

泣き寝入りするしかない時代にあって、進駐軍のお土産という性質ゆえ、

戦後ファッション史のなかで取り上げられることもなく、

多くの刺繍業者にとってスーベニア生産が誇れる歴史とは成り得て来なかった。

しかし、愛好家やコレクターこそが桐生のスーベニア生産の歴史に注目している。

今では、多くのアパレルメーカーがレプリカと呼ばれる、

当時のスーベニアジャケットを模した「スカジャン」を生産している。

中には桐生で生産することを特徴とするブランドもある。

いずれにしてもスーベニア誕生初期においては個人的な関係性から仕事を受注しており、

軍などの公的機関だけに頼らずに自ら販売先を開拓していった刺繍業者たちがいたのだ。

当時の刺繍業者が主体的にスーベニアの企画から販売まで行っていたことは特筆すべき点であろう。

現代ではアパレルメーカーを頂点として細分化された分業体制の一角を担う刺繍業界だが、

占領期には刺繍業者自らが企画~生産~販売まで積極的に行っていた。

流通が発展している現在とは比較にならないかもしれないが、

織物における買継商が発展した桐生において、

刺繍業者自らが積極的に販売まで関与することは、

シンプルだが活力溢れる当時の人々の営みを感じずにはいられない。

 

歴史は現代と地続きである。

新しいことに積極的に取り組んできた桐生の刺繍業界の先人の足跡を知ることが、

次代を担う私たちの使命ではないかと考えている。

刺繍職人が作り上げた「桐生と“スカジャン”」の歴史は、

GHQの占領政策終焉とともに、しだいに忘れ去られていく。

職人自身もまた、高度経済成長期の波に乗って、いつしかスーベニアのことを忘れていった。

 

「まちなかの路地を歩けば、機音と一緒に、横振りミシンの音がいつも聞こえていたよ」

御年95歳の周東繁夫氏は懐かしそうに微笑んだ。

 

 

令和5年10月吉日 桐生ジャンパー研究所 拝

 

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